■ 必殺ねぷた人 三代目 棟梁 中川俊一 「ねぷたへの想い」
■ ねぷたとの出会い・・・。
ねぷたとの出会いは小学校三年生の頃、、、
私を初めてねぷた小屋に連れて行ってくれたのは、親戚の叔父だった。
体も小さく内気で、あの頃の私の居場所は学校の図書室のみ・・・
そんな幼い頃の私は、あの夏のあの日、「ねぷた」に魅入られた。
それからは「ねぷた小屋」が夏の間だけ、私の居場所になったのだ。
あの日から、30年近く経つ。
小学生の時は、ねぷた小屋で遊んでばかりだった。
学校帰りにねぷた小屋に行くのが楽しみで仕方がなかった。
中学生になり、紙貼り、大工仕事、電気の配電などの作業を
一つ一つ手とり足とり教えてもらい、
そして高校生になって、人形ねぷた制作の棟梁である「ねぷた組師」になりたいと夢を抱いた。
■ 必殺ねぷた人、三代目棟梁になり、現在で20年目・・。
中川俊一、ねぷたへの想い・・・。
当時、二代目の棟梁であった二人のねぷた組師が、
私を鍛え上げてくれたことは、今でも本当に感謝している。
そして、20年前、自分が三代目棟梁として「ねぷた」の制作を導くこととなった。
自分が子どもの時にしてもらったことを、今の子どもたちにしてあげたい・・・。
ねぷた小屋は大きな大きな家で、そこに集う人達は家族。
おじいちゃんのように、おばあちゃんのように、
お父さんのように、お母さんのように、
お兄ちゃんのように、お姉ちゃんのように、 ・・・・・子どもたちをずっと見守りたい。
「ねぷた」を作り、楽しむことの分かち合いから、この「絆」を生み出すことが出来るのだ。
それが、私が生まれる前から、40年以上紡がれ続けてきた「必殺ねぷた人」のアイデンティティなのだ。
思い起こせば、棟梁になってから20年が経つ。
棟梁になってばかりの頃、私はガムシャラだった。
「いいねぷた」を作らなければいけないという圧を、
春夏秋冬いつも心のどこかに感じていた。
しかしながら、自分が納得できるねぷたはできなかった。
何が「いいねぷた」なのかもわかってはいなかった・・・。
その現実に向き合えず、過去のねぷたの写真を見るのが苦痛だった。
そんな五里霧中をもがいていたのを今でも鮮明に覚えている。
しかし棟梁になって10回目の夏、
やっと自分が思い描く「いいねぷた」ができたのだ。
だが、なぜ「いいねぷた」ができたのか。自分の技に心当たりがない。
いずれにせよ、風が立ち、心中を満たしていた霧は晴れた。
そして、理由が分かった。
私の周りに、私を支える仲間の輪が幾重にもできていることに気づいた。
私は霧の中で、自分自身しか見えていなかったのだ。
自分の両足と両手だけで、圧をどうにかしようとしていたのかもしれない。
ものを作り出すアーティストとしての自分が
どうにかすれば「いいねぷた」ができると思っていた。
・・・何たる愚かな思い上がりであったことか。
10年もかかって、「いいねぷた」とは何かがやっとわかった。
幾重にも連なる人と人のつながりと
その間にある確かな絆によって生み出されるねぷたが、「いいねぷた」であって、
その「いいねぷた」がまた新たなつながりと絆を生んでいく。
この連鎖こそが、「ねぷた」という祭りの存在意義である。
だからこそ、この地で何世紀にも渡り、夏祭りとして存続してきたのだ。
「ねぷた」を作るために仲間がいるのではなく、つながりと絆を生み出すために「ねぷた」がある。
10年に渡り、このことを理解することが出来なかった。
そんな私が、周りにかけた迷惑は計り知れず、もはや許しを請う資格すらないと思う。
今、出来ることは、過ちを繰り返さず前進することのみ・・・。
ねぷたの存在意義を次世代へと紡ぐこと・・・。
今年も、夏が来る。
子どもたちが、そして仲間たちが、集う「ねぷた小屋」が立ち上がる。
きっとまた、新たなつながりと絆がそこで生まれる。
この「想い」を読んでくれた人が、もしも心に風が立ったなら、
その風が、ねぷた小屋へと背中を押す風であると私は想う。
必殺ねぷた人 三代目棟梁 中川俊一