はじまり―団体が創られてから

hp_bg.jpg必殺ねぷた人の誕生は1972年、若城光雄・鈴木秀次・菊池忠の3人が中心となり団体を創設した。それは四方八方に助けを借りての船出であった。

当時を、初代の代表を務めた若城光雄はこう語る。

「当時、青森ねぶたが一層の盛り上がりを見せていたのに対し、弘前ねぷたは参加台数も減少し、明らかに落ち込んでいた。そして押し寄せる観光化・商業化の波、そんな弘前ねぷたの現状を憂え、青森ねぶたとは違ったやり方で弘前ねぷたを盛り上げようという心意気にあふれていた。しかしドスを抜き身で飲み込んだかの様な、若さだけが頼りの頼りなさ。はじめのうちはトラブル続きだった。そんな時ずいぶんと元気づけられたのが当時小学生の板垣博志をはじめとする子どもたちの圧倒的なパワーだった。」(板垣はその後、長内勉と共に1986年から1996年までねぷた制作の指揮を執った。)

それ以来、必殺ねぷた人は幾多の困難を乗り越えてきた。時には、扇ねぷたと人形ねぷたを合体させ、市役所の奨励金交付の対象外とさせられたり、また、ある時には、例年全ての団体に何らかの賞が与えられていたにもかかわらず、我々だけ賞外という年もあった。しかし、そんなことにめげるはずもなく、その度、力強さと勢いを増していった。そうして着実に成長を遂げていった必殺ねぷた人は、小笠原諸島、パリ・ギリシャ、での運行を見事成功させるなど活躍の場を広げていった。さらに、弘前ねぷたにおいても、何事にもとらわれることのない自由な発想で、斬新なねぷたを毎年作り上げていった。

 

そして、時は流れ1997年、26周年を迎えたこの年、必殺ねぷた人は現在の体制となる三代目に中心世代が移行し、必殺ねぷた人にそして弘前ねぷたまつりに新たな息吹を吹き込んでいる。しかし、その根底にあるものは変わらない。

 

制作・運行・解体の一連の作業を、全て自分たちの手で行うこと。そうして作られたねぷたには、自ずと関わった人たちの思いが込められ、胸を張ってまちを練り歩くことができ、また、後片付けの哀しさを味わうことができるのである。そして、それこそが古くから伝わるねぷたの王道であるといえよう。

 

 

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中川俊一 執筆コラム

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