「弘前ねぷた祭りの伝統は扇ねぷたである。○か×か?」
私はよくこんな質問をする。するとほとんどの人が○と答える。
問題が少し意地悪いのだが、正解は×なのだ。
なぜ間違っているのかといえば、扇ねぷただけが伝統ではないからだ。
人形ねぷたの伝統も弘前に存在してきた。
しかも、歴史的にいえば、人形ねぷたの方が古い伝統をもっている。
ねぷたの歴史を簡単にいえば、二百年ほど前にそれまでの角燈籠から
進化して、人形ねぷたが作られるようになり、その後、明治時代に
なって扇ねぷたが考案された。
意外にも、扇ねぷたは近代に考案された新しいねぷたのスタイルなのだ。
このねぷたの形の変化は、共に城下町の弘前を中心に起きたようだが、
人形ねぷたが津軽地方全域に広まったのに対し、扇ねぷたは全域には
広まらなかった。その理由は、扇ねぷた考案の社会的背景にあると
みられている。
廃藩置県後、城下町としての地位を失った、弘前の経済情勢の悪化が、
扇ねぷたを生み出すきっかけとなった。
手間と費用を減らしなおかつ美しいねぷたのスタイルとして扇ねぷたは
考案されたのだ。よって、当時、弘前と同様の情勢になかった地域で
作られることはなかった。
この違いによって、人形ねぷたのみを昔から作り続けてきた地域と、
人形ねぷたと扇ねぷたの両方を作ってきた地域とが存在することに
なったのだ。
けれども、多くの人が、人形ねぷたは青森市で生み出されたもので、
弘前の伝統ではないという勘違いをしている。
この勘違いが影響してか、弘前ねぷた祭りでの人形ねぷたの
割合はわずか一割ほどしかない。
確かに、人形ねぷた制作の膨大な作業量も一因とは思うけれども、
それよりも歴史認識の誤解の方が、この割合の要因となってきた
のではないかと私は思う。
そして、現在では、歴史認識の誤解ばかりではなく、人形ねぷたの
魅力や技法まで、誤解されているような気がする。
この連載が、それらの様々な誤解を解く良い機会となるよう、
筆を進めていきたいと考えている。
参考文献 藤田本太郎著作『ねぶたの歴史』