人形ねぷた制作の「手間」、言い換えれば「作業量」は、扇ねぷたに
比べれば、数十倍から百倍近く人形ねぷたの方が多い。
私は他の団体の関係者に「よくもあんなに手間がかかるものを毎年作るね。」
とよく言われる。けれども私はそうは思わない。その手間の分だけより多く
の人が作業に参加できると考えている。
また、人形ねぷたは作業量が多いだけではなく作業の種類も多い。
初心者でも参加できる簡単な作業から、熟練を要する難しい作業まで難易度
の幅が広い。その幅はそのまま、作業に参加できる人の幅になる。
つまり、人形ねぷた制作は子どもから大人まで様々な人が参加できるという
魅力をもっているのだ。
このことは、ねぷた祭りの現代における意義を考えたとき、極めて重要な
意味をもつ。
ねぷた祭りの意義は、眠り流しのころの、「穢れ祓い(けがればらい)」に
始まり、ねぷた喧嘩の時代の「うっぷん晴らし」に転じ、近代は観光資源
としての意義がより注目されてきた。そして現代における意義は何か。
地域社会の人間同士のつながりの希薄化から、地域の力の減衰が叫ばれる昨今、
そのコミュニティを再構築するための絶好の機会に、ねぷた祭りは成り得る
のではないか、と私は考えている。そう考えると、子どもから大人までより
多くの人が参加できるという人形ねぷた制作の特徴は、決して見過ごすこと
ができない。
「でも、もはや弘前の伝統は扇ねぷただ。」という人もいるだろう。
それは伝統の勘違いだから、より伝統的な人形ねぷたが良いなどということ
ではなく、そもそも「意義」は「伝統」よりも優先されてしかるべきでは
ないだろうか。むしろ、意義の変化によって伝統は進化していくものでは
なかろうかと私は思うのだ。
そして、もう一つ言えることは、変わることができない伝統文化は、必ず
そのエネルギーを失う。最初に人がいて、その社会に求められる意義が
あって、文化が存在する。
今、「ねぷた祭り」はその順位が逆になってしまっている気がするのだが。