「集団心理」という危険因子

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人間が集まって集団になると、一人の人間として行動する際の心理とは異なる心理を抱くものである。

 

心理学の有名な実験で、「大学の講義中に教師が突然倒れた時に、学生がどのような行動をとるか?」というドッキリのような実験があるそうだ。

得られた結果として、学生の資質に関わらず、講義を受けていた学生の数が多ければ多いほど、倒れた教師を救護する行動が遅くなったという。

つまり、人は集団になると、主体性が減退し、「誰かがやってくれるだろう」と思ってしまうようだ。

 

この心理は、ねぷた制作にしても運行にしても、なかなか厄介なものだ。

誰かが作ってくれるだろう。」

誰かが安全確保してくれるだろう。」

そう考える人がいると、その分違う誰かがその人の分まで補わなければならなくなる。

 

これを防ぐには、個々人の責任を明文化した「ルール」が必要となる。

では、ルールを作ればどうにかなるのだろうか?

 

確実に、そこでも集団心理が働く。

自分一人くらいいいかな。」とか、

ばれなきゃいいよね。」とか、

考える人間が出てくる。つまり、モラル感の低下が生じる。

 

ルールを守るか守らないかは、個々人のモラルに委ねられるわけで、

ルールを作る際は、同時に集団心理に揺らがない「モラル」を個々人にもってもらう必要がある。

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我々のねぷた団体、HISSATSUねぷた人では、今年のねぷたに向けて、ルールづくりが始まっている。

このルールづくりにおいて、トップダウン方式は用いない。

つまり、みんなで協議を重ねながら、ボトムアップ方式で進める。

モラルを高く維持し、ルールを順守する体制構築を目指しているからだ。

 

上層部で決定したルールを、ルールブックにして全員に配ったところで、

集団心理が発生すれば意味が無くなってしまうと考えているからである。

 

もう一つ、ルールを破らせない方法があると思う。

それは、違反罰則「ペナルティ」を設けることだ。

ペナルティによって、ルール違反を抑止するわけだ。

 

しかし、ペナルティを設けるともう一つ必要な存在が生じる。

それは、ペナルティを行使するかを決定する審判「レフェリー」である。

当然のことながら、レフェリーは公正な判断をしなければならない。

よって、一般的には、その組織とは別の独立した存在が務めることが多い。

 

では、一つのねぷた団体の中で誰がレフェリーを務めれば良いのか?

これが難しい。

レフェリーは時に、嫌われ者も演じなくてはならない。

それができる人間がいたとして、その人間だけで、

ペナルティの対象行為が、悪意のある「故意」なのか、

悪意のない「過失」なのかを見極めるのがまた難儀である。

 

そして、世の中には心外にも「悪意のある人間」が少なくない。

そのような人間が、ねぷた団体に紛れ込むことがあり得る。

だから、我々の団体においても、抑止力としてペナルティ付のルールを設けなくてはならない。

 

では、レフェリーは誰が務めるのか?

この難問の解は、「全員」であると我々は考える。

みんなで議論し、ルールを作りながら、モラルを極限まで高めていく。

そして、モラルの範囲を自分一人ではなく、両隣の近しい二人まで広げてもらう。

それが可能になれば、ルール違反を水際で防ぐことができる。

 

これで防げない行為は、「悪意ある行為」である。

そのような行為をはたらく輩は即刻退場して頂く。

 

「それは理想論だ。」という声が、内部から出るかもしれない。

しかし、我々には、それに挑戦し必ず実現させる覚悟がある。

組ねぷたを制作するための膨大な共有時間がある。

それは、意識を共有し、情報を共有し、モラルを高めていく絶好の時間にもなり得る。

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集団における個々人のモラルを極限まで高められれば、

集団心理を逆手に取ることだってできるはず。

赤信号、みんなで渡れば、怖くない」を、

赤信号、誰も渡らないから、ちゃんとルールを守ろう」にすることができるはずだ。

 

弘前ねぷたまつりが迎える新しい時代、

HISSATSUねぷた人一致団結して臨む所存です。

「参加自由 努力必要 厄介無用」どうぞお見知りおきを願います。

 

 

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中川俊一 執筆コラム

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