「ねふた」というまつりの独自性
前回述べた、一つ目の非日常の時間空間を体験できる点は、ねふただけに限ったことではない。
多くの祭りに共通することである。
では、ねふた独自の「豊かさ」を考えるためにここで、祭りとしてのねふたを他の地方の祭りと比べてみたい。
つまり、ねふたの特徴、独自性を考えてみる。
私は生まれも育ちも津軽なのだが、県外で七年間生活をしていたことがある。
その時に県外の人に必ずといっていいほど聞かれたのが、この質問である。
「祭りが終わったらあの巨大な灯籠はどうするのか?」
当然のように、「壊してしまいますよ。」と答えると、皆さん驚かれる。
そして次にこう聞かれる。「作るのにどれくらい時間がかかるの?」
私が、「少なくとも一か月以上、大きいものなら半年ほどかかるものもある。」と答えると、皆、信じられないと言う。
改めて考えてみると、他の地方で祭りのシンボルとしてよく用いられている神輿や山車などは、そのままの形もしくは分解して保管されていることが多い。
つまり、祭りの準備とは、それを組立て化粧するということである。
それに比べれば、ねふたは台車や木枠以外は毎年制作するのだから、準備に要する時間や手間は相当に多い。
私はこの特徴点にねふたの「豊かさ」が存在すると考えている。
ねふたは、祭りの期間はもとよりその準備の期間も長く、手間も多くかかる。言いかえれば、長期間、多くの人の手がねふたの準備には必要だということだ。
この準備における共有時間は、人のつながりを生み出すことができる。
人のつながりとはその地域に生活する人々がもっている人的ネットワークのことであり、
社会学などでは「社会関係資本」とか「紐帯」という言葉が用いられたりする。
昨今、よく聞かれる「地域力」を高めるための大きな要素であると考えられている。
漢字一文字でわかりやすく言えば「絆」と表されるだろうか。
昨今、「孤独」とか「孤立」といった問題が様々な地域で問題となっている。
人間が生活していく上で、何でも話し合える、助け合える、苦労や喜びを分かち合える友人がいることは大切なことではないだろうか。
ねふたという祭りは、津軽で古くから運用されてきた、地域の絆を生み出すシステムと考えることができる。
膨大な準備作業を共有することで他の地方の祭りよりもずっと高い効果を生むシステムだと私は思う。
もちろん、ねふたが唯一のものではない。
祭り以外にも様々な「絆」を生む機会はある。
しかし、終われば壊されてしまうものを、こんなにも膨大な時間と手間をかけて作るという矛盾に満ちた、ねふたの共同行為には、特有の魅力があると私は感じている。
これを二つ目の「豊かさ」と考えたい。